Vol.9 At the end of the day | 第九夜: 本が読めない夜は

胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、いったい確実なものなど、あるのだろうか?いつのときもあなたを苦しめていたのは、何かが欠けているという意識だった。わたしたちが社会とよんでいるものが、もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。

わたしたちは、何をすべきか、でなく何をすべきではないか、考えるべきだ。冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの「Conversations With Myself」を聴いている。秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、ここにいた。もうここにはいない。

長田弘「こんな静かな夜」

いま自分がどういう状態にあるのかを知るためのモノサシが、わたしにはいくつかある。たとえば、睡眠時間のように分かりやすいもの。そしてもうひとつ、より個人的でより確かなサインは「文字が読めなくなる」こと。

それは体調が良くないことを指し、そんなときは、どう頑張っても本を読み進めることができない。数行読んでは立ち止まって本を閉じる。数行読んでは立ち止まり、本を閉じる。こうして何度か試したあと、ようやく観念する。——今日は、本が読めない日だ、と。

そんな夜、私は音楽を聴く。

夜に聴くなら、静けさに寄り添う音楽がいい。その中でも、どこか包み込むような優しさのある音楽がいい。そして、できることなら「みんなに」ではなく、「わたしにだけ」語りかけてくるような音楽がいい。

しかしそれは、いったいどんな音楽だろうか。

華美な装飾のない、素朴なメロディー。身体のリズムと衝突しない、抑制のきいたテンポ。遠くからかすかに届くような慎ましやかなハーモニー、部屋にすっかり馴染んだ家具のような。

頭の中を巡る言葉たちとの意味がぶつからないように、歌のない音楽がいい。また夜なら大きな作品より、小さな、そして美しい音楽がいい。 

なんて注文が多いのだろう。けれどわたしが好む音楽の種類は、私が好む本のそれと、どこかよく似ている。

今日は、どんな音楽と夜を過ごそうか。

Glenn Gouldが1955年に録音した「Goldberg Variation」。

Vlado Perlemuterが演奏するRavelのパヴァーヌ、あるいは水の戯れ。

Arvo Pärtなら「Alina」か「Tabula Rasa」か。

Keith Jarrettなら「The Köln Concert」がいい。甘さを求めるなら「The Melody At Night, With You」もたまには良いかもしれない。

それらを、小さな音量で部屋に放つ。

夜がはじまる。





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