第六夜: 10年の積読
作品は、作者のものではない。書き終わった地点から書き手の手を離れてゆく。言葉は、書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する。
(中略)
読み手は書き手とは異なる視座から作品を読みや何かを創造している。書き手は、自分が何を書いたか、作品の全貌を知らない。それを知るのはいつも、読み手の役割なのである。
若松英輔「悲しみの秘義」(2019)
何年も前のことになるがわたしと本の間に、ある忘れられない記憶がある。
10年以上にわたって積読となっていた詩集があったのだが、この詩集をあるきっかけで手に取り読み終えたとき、自分の中に湧き上がった曰く言い難い感情があった。
時間をかけて整理していくとその感情は次の3つの気持ちが混在していたように思う。
ひとつはなんて素晴らしい詩集だったのだろうという抑え難い感動。
もうひとつはこの詩集が一生の本になると言う確信。
最後のひとつはこの詩集を読むのに、10年もの長い間留保した怠惰な自分に対する失望。
この文章を書いていて、改めてその詩集を読むことをためらっていた自分に呆れてしまう一方で、ある疑問がわたしの頭を掠める。それは次にような問いだ。
「果たして10年前のわたしがこの詩集を読んだとしたら、その素晴らしさに心を震わせていただろうか」

本は読み手にある種の成熟や読むにふさわしいタイミングを求めるようなところがある。
だとすれは、この詩集を読まなかった10年は、わたしがこの詩集に心が動くために必要な時間だったのではないだろうか。
10年前に読んだとしても、その中身を理解せずに通り過ぎてしまう可能性もあっただろう。そう考えると出会うべきタイミングに出会えたのではないか、と考えないこともない。
しかし、この問いに答えはない。本はこの10年、私の本棚にずっといただけだ。確かなことがあるとすれば、本は読まれることをただ待つ存在だということだ。
*
その詩集の名は「世界はうつくしい、と」という。随分と待たせてしまったけれど、ようやくこの本に追いついた。
これからもよろしく。
K

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