作品は、作者のものではない。書き終わった地点から書き手の手を離れてゆく。言葉は、書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する。
(中略)
読み手は書き手とは異なる視座から作品を読みや何かを創造している。書き手は、自分が何を書いたか、作品の全貌を知らない。それを知るのはいつも、読み手の役割なのである。
若松英輔「悲しみの秘義」
何年も前のことだけれど、わたしと本の間にある忘れられない記憶がある。
10年以上にわたって積読となっていた詩集があった。この詩集をあるきっかけでようやく読み終えたとき、自分の中に湧き上がった感情は3つだった。ひとつはなんて素晴らしい詩集だったのだろうという抑え難い感動。もうひとつは一生の本になると言う確信。最後のひとつはこの出会いを10年も留保した怠惰な自分に対する失望。
この美しい詩集との出会いをためらっていた自分に呆れてしまうのだが、ある疑問がわたしの頭の中に浮かんで消えないのだった。それは次にような問いだ。
「果たして10年前にわたしなこの詩集を読んだとしたら、この詩の素晴らしさに心を震わせていただろうか」
本は読み手にある種の成熟を求めるようなところがある。そしてそれに関連したふさわしいタイミングのようなものも。

この詩集を読まなかった10年は、わたしがこの詩集に心が動くために必要な時間だったのではないか。
10年前に読んだとしてもその中身を理解せずに通り過ぎてしまう可能性を考えると、出会うべきタイミングに出会えたのではないか。
そんなことを考えるが、この問いに答えはない。本はこの10年私の本棚にずっといただけだ。確かなことは、本は読まれることをただ待つ存在だということだ。
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随分と待たせてしまったけれど、ようやく追いつきました。これからもよろしく。

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