Vol.5 At the end of the day | 第五夜: 対話の可能性、境界を超えて

街に音が溢れる日がある。その日、その街には多くの人が行き交い、ジャズの音色が街を染めていた。しかしそれらの喧噪、ニューオリンズの調べは一瞬で消え去り、静寂が訪れた。ある文章に触れたからだった。

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ジャズは対話のような形式を持った音楽だ。即興といわれる表現によって、クラッシックとは異なり棋譜されていない音を紡ぐ。それはもっとも会話に近い音楽表現のように思っている。

今年、ジャズが好きな友人と一緒に宮城県仙台市で行われた定禅寺ストリートジャズフェスティバルへ訪れた。この期間中、仙台市内の各所でジャズの演奏が繰り広げられ、街が音楽に染まるのだ。

屋内会場のひとつにせんだいメディアテーク | sendai mediathequeがある。2000年に開館した芸術文化施設だ。入り口近くの外壁に何やら文章が掲げられていて思わず目をとめたのだった。少し長いが大切な言葉だと思うので引用する。

人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。

<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること。それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

鷲田 清一(わしだ きよかず)「対話の可能性」

私はこの文章の前でしばし立ち尽くしてしまった。そして思った。本を読むという行為は、広義な意味で「自分と異なる他者と共に生きていくこと」にあたるのではないだろうか。

また異なる他者と生きていくためには「違うということ」を問題にしないことが、大切なことなのだと思う。思考は発散していき、レト・ゾルクの「境界を超えて」という文章を連想する。

“グローバル化した現在の世界では、すべてが安っぽさと軽率さに支配されている。こうした均一化に一石を投じ、回復をはかるのが芸術作品である。芸術作品は、高度な独自性と自立性を担うものであるが、しかし同時に、多様な人間や文化、異なる分野や意見の間に橋を渡し、根本的な対話を促しもする。最終的に人生を面白くするもの、それは類似ではなく相違なのだ”

自立しつつ、人とつながること。人とつながる際には、類似ではなく相違を重んじること。人で悩むことがあったら、この「境界を超えて」そして「対話の可能性」という文章に帰ってきたい。そんな形で思考は集約を迎える。

わたしは、わたしの中にもう一度ジャズが鳴り、街の喧騒が戻ってきたことに気づく。





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