“もう一度、バラを見てごらん。あんたのバラがこの世界に一つしかないってことがわかるから”
サン=テグジュペリ「星の王子さま」(1943)
折に触れてある本を読み返すたびに、心に残る箇所が少しずつ変わっていく。そのことを通じて、かつてそれを読んだときの自分がもういないことを知る。
かつてのわたしが線を引いた文章が移ろってゆくこと。この変化を喪失と捉えようか、あるいは成長と名付けようか。
確かなことはあのとき心に響いていた言葉が、今やなんの音も奏でずにインクの染みとしてしか見えないこと。一方で、これまでに何度も目にしていたはずの凡庸な文字の連なりが、初めて出会ったかのような驚きでもって、輝いて見えること。
ここには普遍的な読書の喜びと、刹那的な移ろいの悲しみがあるように思う。
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星野道夫さんの「旅をする木」という本の中に、わたしが大好きなエピソードがある。

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったら、キャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって….その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。」
これまで表現とはもっと表現的であると思っていた。つまり、それは何かの形をしていた。写真、絵、音楽、あるいは詩であるとかして。
しかしそれだけではなかった。美しいものに出会い、それによって自らが変わっていくこともまた、表現のひとつとしてカウントできるのではないかという示唆がここにある。
この考えを推し進めると本を読むこともまた表現のひとつと言えるのではないだろうか。本は良くも悪くも読み手の世界を見る目を変えていく。その本を読む前の世界にはもう戻れない。
眼差しの変化は「横への推移」ではなく「縦の推移」によって生まれるように思う。右から左への移動ではなく、上から下へと深まっていく世界。レイヤーの移動と言っていいかもしれない。
ここへきてようやく冒頭の問いだてに対する答えの輪郭が、ぼんやりと浮き上がってくる。変わっていくことは、喪失でも成長でもなかった。さしあたってわたしはそれを成熟と呼ぼうと思う。

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