幸福になる必要なんかありはしないと自分を説得することに成功したその日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。
アンドレ・ジッド「新しき糧」(1935)
湯を沸かし、ドリッパーにペーパーを敷く。グラインダーで豆を挽く間に、湧いた湯でペーパーを濡らし、サーバーを温める。粉をセットし平らかにする。そこに湯を細い糸のようにして優しく注ぐ。幾度なく繰り返され、身に染み付いた朝の儀式。
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コーヒーとの本格的な出会いは2015年に遡る。偶然見かけたカフェで飲んだ一杯のコーヒー。生まれてはじめて美味しいと思った。飲んだのはアイスエスプレッソ、店の名はFuglen。友人との待ち合わせ場所に、早く着きすぎてしまったという些細な理由がきっかけだった。
以来、わたしは毎朝ハンドドリップでコーヒーを淹れるようになり、休みの日は美味しいコーヒー探して歩くようになった。同時にコーヒーは多層な文化を持ち、多様な飲み物であると知った。そしてその味わい方も。
昼下がりに飲むコーヒーは心に落ち着きを与えてくれる。今日もあと少し、と。そんなときわたしは浅煎りがいい。夕暮れに飲むコーヒーは、疲れた体にどこか染みるようだ。夜にデカフェを飲みながらの読書もいい。さらに言えば、寒い日の朝に飲む淹れたてのコーヒーは格別だ。そんな季節は深煎りを好んでいる。
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ある冬の朝、私は一足早く目を覚まし、顔を洗う。キッチンに立ち、いつもの手順でコーヒーを淹れる準備をする。頃合いを見計らったかのように妻が眼を覚ます。少ししてから隣の部屋から泣き声が聞こえ、小さな娘が目を覚ましたことを知る。
わたしは彼女を抱き抱えてキッチンに戻る。娘の視線はコーヒーに集中する。そしてわたしはゆっくりと、丁寧に粉に湯を注ぐ。半身に娘の体重そして体温を感じながら。リビングにコーヒーの香りがゆっくりと広がっていく。

「大きくなったら父さんと一緒にコーヒーを飲もう」
毎回、娘に同じことを言いながらコーヒーを淹れる。この願いはいつか叶うだろうか。
気まぐれに妻が「わたしもコーヒーを飲みたい」と言うことがある。わたしはいつも密かに彼女の分も用意しているが、彼女はそれを知らない。
そうして一日が始まっていく。こんな朝のルーティンはささやかだけれども、確かな家族の時間としてわたしの中に堆積していくのだった。
そして気づく、わたしにとってコーヒーは単なる飲みものを超えた存在なのだと。それは優しい時間であり、温かな場所であり、わたしたち家族をかぼそく、ゆるやかにつなぐ何かなのだ。
コーヒーと出会ってから10年が経とうとしている。変わったことも多いが、変わらないものも少なからずある。
変わったことは、こんなわたしにも家族ができたこと。変わらないことは、今日もコーヒーを淹れること。

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